• リフォーム業界事情

なぜ日本人は新築の家を買いたがるのか【7】

今回のテーマは、前回の団地の話から続く、日本の住宅政策の歴史と「持ち家志向」が強まっていった経緯についてです。

団地は効率的だが、採算面で課題も

戦後、日本住宅公団(現・UR都市機構)が手がけた団地は、一度に大量の住宅を供給できる非常に効率的な方法でした。
しかし、団地を開発するには、土地だけでなく鉄道やバスなどの交通機関、スーパーや学校といった生活インフラの整備も必要です。当然、莫大な費用がかかります。

千里ニュータウンのように人口が多く税収も見込めるエリアでは採算が取れますが、すべての地域がそうとは限りません。人口規模や経済状況によっては、開発費に見合う税収が得られず、自治体が歓迎しないケースも多かったのです。

需要が落ち着いても続いた団地建設

公団には政府から住宅供給数のノルマが課せられており、需要が減っても計画を続行する必要がありました。
1970年代に入ると、地価の高騰や都市への人口流入の落ち着きによって、都市部での住宅需要は減少。にもかかわらず、遠隔地での団地建設は続き、利便性の低さと価格の高さから入居希望者は減少していきました。

結果として、公営住宅も公団住宅も、便利な場所には空きがなく、不便な場所に空き家が残るというミスマッチが発生。日本は良質な家族向け賃貸住宅が少ないという事情も重なり、次第に「持ち家を持つ」方向へ人々の意識が傾いていきます。

住宅金融公庫の設立と役割

こうした流れの中で、政府はもう一つの住宅政策を打ち出しました。それが1955年設立の住宅金融公庫です。
戦後間もない時期、民間の金融機関は産業への融資を優先し、個人の住宅購入に資金を回す余裕はありませんでした。そこで政府が、長期・低金利で住宅資金を個人に貸し出す仕組みを整えたのです。

当時の金利は上限5.5%で、基準を満たす住宅に対して融資が行われました。申し込みは抽選制で、13万件以上の応募に対し、契約に至ったのは約6万件。多くの人にとって、夢のマイホームへの第一歩となりました。

バブル期と民間ローンの台頭

高度経済成長期を経て、1970年代後半には住宅建設が景気対策の一環として推進され、住宅金融公庫の融資件数も増加しました。
しかし、借り手の増加に伴い返済不能者も増え、1980年代半ばの土地バブル崩壊でその傾向は顕著に。返済不能による競売物件も少なくありませんでした。

バブル崩壊後、金利低下と金融自由化により、民間金融機関が個人向け住宅ローンに参入。住宅金融公庫よりも低い金利を提示できるようになり、多くの人が民間ローンへ借り換えるようになりました。その結果、公庫は競争に押され、役割を転換していきます。

フラット35の誕生

2000年代に入ると、住宅金融公庫は「住宅金融支援機構」に改組され、民間金融機関と協力する形へ。代表的なのがフラット35です。

フラット35は、民間金融機関が保有する住宅ローン債権を機構が買い取り、それを担保証券として投資家に販売し、資金を調達する仕組み。
これは2007年のアメリカ・サブプライムローンと似た構造ですが、日本では比較的安定的に運用され、現在も長期固定金利ローンの選択肢として根強い人気があります。

持ち家率を押し上げた低金利時代

2000年代以降は、低金利と頭金不要のローンが一般化し、若年層や所得が高くない世帯でも住宅を購入しやすくなりました。
こうした制度の変化は、日本の持ち家率を大きく押し上げ、現在の住宅市場の基盤となっています。

歴史を知ることで、これからの住まい方が見えてくる

団地や公営住宅から始まった戦後の住宅政策は、住宅金融公庫を経て、フラット35のような民間協力型ローンへと進化しました。
その背景には、経済状況や人口動態の変化、そして人々のライフスタイルの変化があります。

私たちリフォーム業界にとっても、この歴史は重要な意味を持ちます。
なぜなら、今の住宅市場にある物件やローン制度は、この長い政策の積み重ねの上に成り立っているからです。歴史を知ることは、これからの住まいの選択肢を広げるヒントになるのです。

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